ずっと観たかった「PLAN 75」という映画。
伊勢市の新富座で上映していると知って、やっと今日観ることができました(新富座さんでは9月1日まで上映中)。
まだ鑑賞後の余韻が残っている間に、感じていることを書き留めておきたいと思います。
私は、「安楽死」というものに、ここ数年憧れを持っていました。
それは、「92歳のパリジェンヌ」というフランス映画を観たのがきっかけです。
病気ではないけど、もう体が自分の思うように動かないと感じたある女性が、家族が開いてくれた92歳の誕生日会で「私は4ヶ月後に逝きます」と宣言したことをきっかけに、その彼女自身の、そして彼女を取り巻く家族の心模様を描いた実話に基づいた映画です。
その映画では、自分の持ち物全てに行き場所を決め、いろんな方面から潔く自分の人生を締めていく女性の姿が映し出され、私にとっては、両親と夫を見送って独り身になったら人生の最後は、突然逝くのではなく、きちんとプランして人生を締めていけたらいいなと思っていたので、まるでそのお手本のような最後に憧れを持ったのです。
でも今「PLAN 75」を観てきた後は、その感覚が少し変わり始めています。
この映画を指揮した早川千絵監督があるインタビューで話されていたように、これは安楽死の是非について描いた映画ではないこと、とてもわかりました。
それよりも、日本が高齢者や障害者などが肩身の狭い思いをしてしまう社会になりつつあることへの警戒感から作られた映画であることが、とてもわかりました。
この映画を観る1日前に、実家に寄って、ゆっくりと母の話を聞く機会がありました。
その母の話には生死に関する話題がたくさんあって、この映画と何かシンクロするような話題だったなと、映画を観た後に思いました。
ある母の友人の死について、「自然の摂理」の中で、人は生きたり、生かされたり、亡くなっていったりすることを強く感じる、印象深い話を母がしてくれました。
その母の話の余韻が残ったまま「PLAN 75」を観て、この映画で描かれている社会制度の中で高齢者が安楽死を選ぶ流れがあまりにも無機質で、「超」をつけたくなるくらいに不自然に感じました。
無機質なコンクリートばかりのある世界では、無機質であることが「自然」となって、考え方も自然とそうなってしまうのかもしれません。
命は有機的なものだから、私たちが生きていく社会をやはり有機的なものによりしていく必要があるのかもしれないと、そんな当たり前なことも改めて感じました。では、何が有機的な社会か?についてはもっと考察しないといけませんが、社会が無機質になってはいけないことは強く感じました。
「安楽死」に話を戻すと、私にとって安楽死とは、辛いから、寂しいから、生きがいがないから選択するのでなく、もうこの人生全てをやりきったと感じられるほどに責任を持って生きてきたことを最高レベルで表現できる「生き方」であると思っているところがあります。
でも、以前にもブログで書いた「全てはもう決まっている」という内容に繋がるのですが、私たちはどんなふうに死ぬのかも、もう決まっている、いや決めてきている。そうだとしたら、安楽死を選択しようとしなくても、もう自然とどうなるかは決まっているのだから、やはり今をただただ精一杯生きていればいい、とそんな心境にまた戻ります。
深い魂のレベルでは、私たちはもういつ、どのように死ぬかを決めているのだろうと、私は感じています。
だから、安楽死を選ぶ、選ばないということよりも、もうすでに決まっているプランに身を任せれば良いだけ。
その流れを「自然」というのなら、その「自然」の流れを信頼していれば、納得する旅立ちが待っているのだろうな、と。
そして、それは自然に身を任せているようでも、自分の意志=魂の意志がしっかりと作用しているのかもしれないというパラドックスの世界があって…。
この映画をみて、「魂の意志」と「自然の摂理」とのあいだに、私自身の旅立ちのときはある、とそう感じるに至りました。
この映画を観ている時も、今を含むその後も、何かが静かに熟成していく感覚が私の中で動き続けています。
素晴らしい映画、時間に出会えました。
この映画の制作、上映に関わってくださった全ての関係者の方々に、深くお礼を申し上げます。